親しい誰かが亡くなったとき、泣くのは当たり前。涙が出ないから冷たい人。たぶん多くの人にとって、それが普通の考えでしょう。涙と悲しみはワンセットだと。でも、人間の感情はそれほど単純ではないはず。映画『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』は、車の事故で同乗していた妻を突然に失ったデイヴィスをめぐる物語です。一風変わっているのはこれが、そんな不幸を前にして、悲嘆にくれる男の話ではなく、一滴も涙を流せずにいる男の話だというところ。泣けない自分を分析するうち、デイヴィスは自分が妻を本当に愛していたのかとか、自分はどこか変なのかとか、戸惑いを覚えるのです。涙を見せない彼を心配していた周囲もやがて、訝しがるようになります。そんな彼に義父は「心の修理も車の修理も同じこと。まずは細部まで点検し、組み立てなおせばいい」といいます。それをきっかけに、デイヴィスは周囲にある、あらゆるものを破壊しはじめました。その行動は、人々の目に奇異に映ります。心配し続けてくれた義理の両親も彼の行き過ぎた行動についていけなくなります。義父が与えてくれた恵まれた環境も失うことになった彼は、いったどこへ行くのか。それが本作の核心です。彼の姿を見ていて感じたのは、悲しみの種類はひとつではないということ。同じ悲劇に直面しても、そこから生まれる感情をひとまとめにすることなど、できないのだということです。ならば、悲しみから再生する道筋だって、悲しみの数だけあるはず。彼が辿る再生の旅は、あまりにも常識はずれかもしれません。でも、喪失の痛手がどんな風に表出しようとも決してジャッジすることなく、デイヴィスの心に寄り添っている本作だからこそ、なんとか悼みを乗り越えていく人間の剥き出しの姿がとても切なくあぶりだされていくのです。人間は強い。そして、どんなに不条理に満ちていても、人生には歩み続ける価値があると、ちょっと奇妙なやり方ではありますのが、この作品は優しく教えてくれているのです。妻が突然事故で亡くなったのに、涙を流せない男といえば、昨年公開された邦画『永い言い訳』の主人公もそうでした。同時発生的に生まれたこの2作だけで、こんな夫が多発中などと決めつけることはできませんが、それにしても不思議な偶然。主人公のタイプも、妻との関係性もそれぞれでしたから、二人を関連づけることはできませんが、もしかしたら、本能から遠ざかりすぎた現代社会で生きるうち、人は“実感”というものを抱くことが少々難しくなっていることの表れなのかもしれません。でも、そんな中でも喪失をきっかけに、懸命に自分と向き合おうとする男たち。彼らのように、うまく自分の中にある悲しみを見つけられない人にも(それは自分かもしれないけれど)、優しく寄り添える誰かがそばにいてほしいなと願うばかりです。