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【インタビュー】斎藤工、“見られたくない部分”をさらけ出す「原作者や監督の覚悟が伝われば」

「ソラニン」や「おやすみプンプン」で知られる人気漫画家・浅野いにおが己の業(ごう)をさらけ出したと評される「零落」。存在意義を見失った漫画家の彷徨を生々しく描いた本作が、竹中直人監督・斎藤工主演で実写映画化された。

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斎藤工『零落』/photo:You Ishii
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  • 『零落』©2023 浅野いにお・⼩学館/「零落」製作委員会
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“業”のあり方で作品が決まる


――まさにそうなんですよね。ある種の真実味を観た気になるといいますか。そうした業をさらけ出した映画で、工さんの中で印象的だったものはありますか?

人様の作品でいうと、やっぱりラース・フォン・トリアー監督の作品ですね。特に『ドッグヴィル』のドキュメンタリー『メイキング・オブ・ドッグヴィル ~告白~』は強烈でした。

――あれは凄かったですね…。出演者たちが撮影の合間に「告白部屋」にやってきて不満をぶちまけるという。

いま日本でも、現場で監督の方がどう働き、どう映ってどう影響を及ぼすかが追及されていますよね。僕らはどこかで「芸術だから」とかこつけて認可してきてしまったけど、心のどこかで良くないことだとはわかっていた。いまは「そういうことはもうやめよう」という切り替わりの時期でそれはすごくポジティブなことだとは思いますが、ただやっぱり作品を観たときに何が残るかというと、人の本性や本分、決して美しくない心根が見えたときにどこかその人に近づくという不思議な現象がある。

僕たちのように表に出る人間はパブリックイメージと自分自身のギャップや摩擦は常に感じていますが、それが思いっきり浮き彫りになっているものをそのまま作品にしてしまういやらしさも含めて、『メイキング・オブ・ドッグヴィル ~告白~』は記憶に残っています。

――そうした“業”は、俳優や監督といった関わり方によっても変わりますよね。

僕は常々、仕上げで作品が生まれると思っています。俳優はポスプロに立ち会わないものですから、素材としていかに“内臓”を提供するかで、それをどうパッケージするかは仕上げで決まります。監督業は、2回作品が始まるんですよね。現場のクランクインとクランクアップ、仕上げのクランクインとクランクアップというように。どう素材を調理するか、生のままなのか火を通すかという意味では、仕上げの段階は業の塊のようなところもあります。

――集めた素材を「編集で落とす」等の判断も含めて、ですね。

そうですね。ただSYOさんがおっしゃるようにその業の部分が作家性として見えてこないと、監督のクリエイションをちゃんと受け止められたか? となってしまう。その部分の判断基準は、ある意味で業の残り方だと思います。

A24の監督の引き上げと作品の残り香のバランスは非常にスムーズで機能的ですよね。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を観ていても、同じマルチバースでもルッソ兄弟(『アベンジャーズ/エンドゲーム』ほか。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』にもプロデューサーとして参加)とダニエルズでこんなに違うのか! と驚きました。

――『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』で描かれるのは、あくまで一つの家族のマルチバースですもんね。

「こういうマルチバースが見たかった!」という観客の声を反映しているようにも思いましたね。シリーズの風呂敷を広げすぎた感のあるMCUに対して、A24が何をやるか。ある種の作家性と商業性の折衷案が一番の理想形に近づいていくといいますか、ひとつの答えを提示したようにも感じました。

しかも、映画業界ではマイノリティであるアジア系にフォーカスを当てたり、様々な側面でいま映画界がすべきチョイスを全部叶えたうえでああいう仕上げをするのはすごくロジカルですし、気持ちよかったです。


《text:SYO/photo:You Ishii》

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