《text:西森路代》
津村記久子のデビュー作を原作に吉野竜平監督によって映画化された『君は永遠にそいつらより若い』が公開中である。本作は、就職も決まって後は卒論を残すのみという時期をすごしている大学生のホリガイ(佐久間由衣)を中心に描かれた物語だ。
ホリガイは飾り気がなく、まわりからは変人扱いされたり、今も処女であることを周りの男子学生から指摘されたりもしていて、それに対して「もっとカジュアルかつポップに言えないかな」「ポチョムキンとか」と言い返したりもしている。そんなホリガイがひょんなきっかけから一学年下のイノギ(奈緒)に出会って、様々なことが変化していく。
こうしたあらすじを読めば、ホリガイが自分の自意識と、どうつきあっていくかということを描いた作品だと思うかもしれない。大学生のモラトリム期間の葛藤の物語としても成立しうるのだが、この映画は、また別の面も持っていて、そこが筆者がこの映画に強く惹かれる所以でもある。
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ホリガイは、児童福祉士として地元での就職が決まっているが、そこには、一言では言い表わせない理由があった。それは、高二のときにテレビを見ていて知ったある事件に起因していた。
ホリガイは、傷つけられた人を見て、常に心を痛めてしまう人であった。そして、そういう人だからかだろうか、彼女の周りには、様々な傷ついた人が存在していた。
イノギも、やはり傷を抱えた人であったし、飲み会で出会ったのもつかの間、そのままこの世を去ってしまうホミネ(笠松将)にしても、バイト先で出会う、ちょっとお調子者に見えるヤスダ(葵揚)にしても、それぞれに何か痛みやコンプレックスを抱えていた。
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ホリガイは、そんな人の痛みに出会う度に、自分に何ができるのだろうかと考え、彼女自身も誰かを助けられないことで人知れず傷ついてしまう。
実は、ホリガイが処女であることですら、自意識としての彼女だけの悩みというだけではなく、「経験」がないということで、人に本当の意味で向き合うことができるのだろうかという悩みでもあるのだということが、だんだんと分かって来るのだ。
恥ずかしながら私は当初『君は永遠にそいつらより若い』というタイトルを聞いて、「若い」という言葉は、この物語の登場人物の若さの素晴らしさや可能性を称えるためにあるのかと思っていた。そうであれば、この映画もストレートに大学卒業間近の若者たちの青春群像劇になっていただろう。
しかし、冒頭でも書いたように、この映画が青春群像劇であり、青春群像劇だけではない面があるのは、このタイトルの「若い」ということが、ホリガイが傷つけられた弱き存在に向けて放った言葉であるということが重要になっている。
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そもそも、この映画には、傷つけられた当事者と、傷つけられた人が周りにいるけれど、自分はその経験をしたわけではない非当事者で構成されている。後者はもちろんホリガイのことである。こうした当事者と非当事者の問題は難しい。
現実の世の中を見渡しても、災害にあった地域の人たちと、その地域以外にいる人達や、差別されている人たちと、その差別をいたましく思っている人たちなど、当事者と非当事者はたくさん存在している。
非当事者は、実際に体験していないから本当の意味での理解はできないだろうとあきらめてもいけないし、体験していないからこそ何かの力になろうとしても、「経験」がないからこそ、この行動は正解なのだろうかと思い悩んでしまったり、どんな言葉も空虚になってしまうのではないかと思ってしまうこともあるだろう。
けれども、この映画を見ていると、同じ経験をしたわけではない自分にも、そうではない立場から、一緒に痛みを分かち合ったり、その原因をつきとめようと共に動くこともできるのだと思えてくる。
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この映画での当事者は、暴力や、児童虐待やネグレクトの被害者である。常にホリガイは、こうした当事者たちの痛みと出会ってしまい、自らの非当事者性と知らず知らずに向き合ってしまっているのである。もしかしたら、ネグレクトを前にして無力感を味わったホミネも大きな意味でいえば当事者だったかもしれないし、そう考えれば、ホリガイだって当事者になってしまう可能性もある。
当事者をどうにか助けたいと思う非当事者たちは、「あのとき自分に何ができたのだろうか」ということで悩んでしまうものなのだろうし、その経験が人を優しく強くしていくのかもしれない。
このように、ホリガイが自分自身だけを見つめるのではなく、他者の痛みに寄り添わずにいられないことは、彼女が児童福祉士という職業を選んだことにも大いに関わってくるし、そのことで、彼女の物語は終わらずに、この先もつらいけれど続いていくのだということがわかる。
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この映画は、個人的な痛みを描きつつも、その痛みをどうすれば分かち合えるのか、この痛みを味わう人をひとりでも少なくするにはどうしたらいいのかということに向き合っている。実は、そのことを突き詰めると、身近なものの善意や優しさで助け合うことだけではなく、公共の福祉や、もっと言えば行政などの働きが切実に必要なのだということが見えてくるのだ。
そういう意味でも、この映画は、若者のある一時期のキラキラした季節を切り取っただけではない作品になっているし、その先も終わらずに続いていく物語になっているのだと思う。