映画に携わる様々な人たちに話を伺う「映画お仕事図鑑」。今回、登場いただくのは、冒頭の言葉に代表される凄まじいまでのアクションへの愛(※本人は著作にて“アクション脳“と表現。ちなみに本のタイトルは「アクション映画バカ一代」!)を持ち、日本を代表するアクション監督として世界をまたにかけて活躍する谷垣健治。
谷垣さんといえば、スピードと迫力に満ちあふれたアクションを生み出し『るろうに剣心』シリーズを成功へと導いた立役者のひとり。大学卒業後に単身、香港へと渡り、現地でキャリアを積み、その実力を認められていったという谷垣さん。日本中、いや世界を熱狂させたあのアクションはどのようにして生まれたのか? 『るろうに剣心 最終章 The Final/The Beginning』の公開を機に話を聞いた。
スタントマンに憧れ香港へ
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――そもそも谷垣さんがアクション監督を志すようになったきっかけ、経緯について教えてください。
もともと、小学生の頃からジャッキー・チェンや新日本プロレスで活躍したタイガーマスクといったフィジカルな人たちが大好きだったんですね。ジャッキー・チェンをきっかけにいろんなアクション映画を見るようになって、それでスタントマンに憧れて香港に行って…。かいつまんで言うと、そんなことがきっかけですね。
ただ“スタントマン”と言っても香港映画の場合、単にアクションをやるだけでなく、作品作りにコミットすることがすごく多いんですね。スタントマンでも編集室に連れて行かれて意見を求められたり、「カメラやれ」とか「この役をやれ」と言われたりするお国柄なんです。
僕は、スタントですごいことをやって「おぉっ!」と言われるのも好きだったんですが、やっていくうちに自然と「(アクションそのものを)作る」ほうが面白いなと思うようになったんですね。

ロールモデルとなる存在もたくさんいました。ジャッキー・チェンはもちろん、サモ・ハン、ユエン・ウーピン、それからドニー・イェンもそうですね。名前を見ただけで、撮る画が想像できるくらいの“色”を持っている人たちがいました。映画監督でそれぞれに色やスタイルを持っている人はたくさんいますが、それと同じくらいの“濃さ”を持っていて、彼らを見ながら僕はキャリアを築いていくことができて、アクション監督というものに面白さを感じることができたんですよね。
――著書「アクション映画バカ一代」では突然、香港に渡ってジャッキー・チェンの撮影現場に行った時の様子もつづられています。何のツテもないままに言葉も通じない外国でスタントマンを目指すという谷垣さんの行動力に驚かされますが、不安や恐怖はなかったんでしょうか?
香港にはスタントマンやアクション監督になるための養成学校みたいな、そういうシステマチックなものが存在していなかったんでね。なかったからこそできたのかな(笑)。行くしかない、みたいな。
日本では大学に行きながら大阪で「倉田アクションクラブ」(※俳優・倉田保昭が主宰するアクションの養成所)に3年半ほど通っていて、アクションにはそれなりに自信はあったんですね。当時、京都の撮影所の時代劇の撮影にも参加したりもしてたんですけど、やっぱり香港のアクション映画のアクションとはタイプが違うわけです。じゃあ、自分が(倉田アクションクラブで)やってきたことをどう活かしたらいいか? という話です。
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ちょうど大学3回生の頃、周りはみんな就職活動をしてたんですけど、僕はそこじゃなくて、やっぱり一度、香港でやってみたいって気持ちが強かったんですね。それで1991年の9月に勝手に香港に行ったんです。それ以前に1989年にも一度、香港には行ってたんですが、ただのファンとして行って、撮影現場を見て「すげぇっ!」って言って、帰ってきた感じでした。日本でアクションクラブに入るのはその直後の話です。
二度目の時は、ここに住んで働くにはどうしたらいいのか? ということをリサーチしに行ったんですね。現地のイエローページを見て「こんな仕事があるのか」と「映画の制作会社ってこんなにあるのか!」とか、実際に家の賃貸物件を見て「こんなに高いのか」と驚いたり。そこで、たまたまジャッキー・チェンに会う機会があって、自分の技を見てもらったりもしたんですけど…(苦笑)。

結局、93年になって本格的に現地に渡って住みはじめるんですけど、道筋がないので、やってみないとわからないというのはありましたよね。まあ、客観的に見たらおかしな人ですよ。アクションをやりたいってだけで、何のツテもないのにいきなり香港行くって(笑)。ただ、ちょうどその当時、サッカーではカズさん(三浦知良)が活躍してて、あの人は自分でブラジルに渡って現地でプロになって、日本に戻って来たんですよね。それから野茂(英雄)さんもアメリカに渡ってメジャーリーガーになって活躍していました。おそらくみなさん、そういう人たちの気持ちは理解できるんじゃないですか? 野球選手がメジャーリーグに憧れたり、サッカー選手がプロを志したりするという。僕からしたら、香港行くということは彼らと同じベクトル、目線だったんですよね。自分がやってきたアクションというのは香港が本場だったので、そこで自分を試してみたいという。
とはいえ、(働くための)システムみたいなものは何もないし、言葉も広東語という中国語の中ではローカルな言語で、日本では学ぶところもなくて、そこは現地に行ってからの部分だったので、とりあえず行ってみたという感じですね。そしていまに至る(笑)。
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――本場に渡って、そこで現地の人々に実力を認めさせるというのは本当に凄いことだと思います。
それだけ追い詰められていたというところもあったと思いますね。そのまま国内でスタントマンをすることもできたかもしれないけど、周りの同級生たちが就職活動をしている中で、ちょっと河岸を変えるじゃないけど「環境を変えて挑戦する」というのを、自分の中の就職しないエクスキューズにしていたところもあったのかな…といま振り返ると思いますね。
当時の日本の映画の状況を見ていて正直、このまま国内でやってもスタントマンという職業に未来はないなという思いもありました。それならまだ22歳なので、香港で挑戦してみて、ダメだったとしても、現地の言葉くらいは覚えたら、なにかしら生きてはいけるんじゃないかなと(笑)。