去年の9月以来の第2回です。映画にまつわるショートショート、書いてみました。「落ちない紫のバラ」もし将来タイムマシーンが発明されたとしたら、それに次ぐ発明は「写真」だと僕は思っている。僕は基本人生は刹那と思って生きてるので、人生は流れるものだと思っている。でも、その流れを止めることが出来るものがあって、それが僕にとっては写真だった。写真は時間を0コンマ何秒の単位で切り取ってそれをフィルムに焼き付けるわけで、それはまさに時間を閉じ込めた産物と言えると思う。僕が生まれた頃には既に写真は普通に存在していたので、僕たちはそれを割りと普通に受け入れてきたけど、あるときふと考えたときに、これってスゴイことじゃんって思ったのだ。時間が手に取れて見えてしまうではないか!と。どんな写真にもそこにはある場所のある時間が切り取られて閉じ込められていて、それを目で見ることが出来る。その閉じ込められた世界に思いを馳せると、何処までも行けそうな気がして、本や漫画を読むよりも僕は写真を眺めることの方が好きだった。そして、その日も好きな写真を見に、とある美術館へと足を運んでいた。その日見たかったのは、世界的に高名な写真家の写真で映画館のスクリーンを撮ったものだった。一見真っ白いスクリーンしか写っていないのだが、実はその写真は映画を上映中にずっとシャッターを開けっ放しにして、フィルムに映画一本分の光を焼き付けたもので、その結果が真っ白というものだった(写真というのはシャッターの開いている時間分の光をフィルムに焼き付けるものなので、シャッターをずっと開けっ放しにしていればその間の光を全て吸収するのでフィルムが焼けて白く飛んでしまう)。正直この前提を知らないと楽しめない写真なのだが、それでもその写真を生で見たらその真っ白なスクリーンに何かを感じられるのではないかと思って見に行ったのだった。丘の上の瀟洒な美術館の一番良い所にその写真は飾られていた。第一印象は「思ったより小さい」。しかし、その写真には確かに時間が閉じ込められていた。そして、映画一本分のドラマも。普段こういった好きなものを眺めていても心が震えるほど感動する、といったことは滅多にないのだが、これは心が震えた。周りに人がいなければ泣いていただろう。写真の中の白くなったスクリーンを見ていると、そこで動いていたであろう映画の登場人物たちの思いのようなものが白い中にも蠢いているような気がして、止まっているのに何かが動いているようで、心が震えた。何だかちょっと怖いくらいだった。そして、どこかからシャッター音が聞こえたような気もして、10分くらい動けなかった。と思っていたら、動いていないのは僕ではなくてまわりだった。まわりのみんなが止まっている。人も景色も風も全てが止まっている。最初は自分があまりに感動しているから、そういう風に見えるんだろうと思っていたが、さすがに窓の外に舞っている紫のバラの花びらがピタっと絵のように止まっていることに気がついてからは、そうではないということがわかった。花びらが落ちない。何分たっても動かない。一体どうしたのか?美術館の人に訊いてもわからないし、まずそもそも答えてもくれない。人を叩いてもまる石像のように硬い。音も出ない。天井から吊り下がったライトも空中で止まっている花びらも全く動かせない。まるで、そこにある平面に焼き付けられたかのようだった。全てのものが止まっている中で、動いているのは僕だけだった。こういう時にその人間の真価が問われる。ということはよく言われそうなことだが、その時の僕はその状況に興奮するでもなく、絶望するでもなく、ただ普通にその状況を受け入れた。そうか、どうやら時間が止まったようだ。そして、理由は分からないが、今のところ此処で動けるのは僕だけらしい。いや、もしかしたら他にもいるのかもしれない。動ける人たちを探しに行こうか?でも、そんな保証もないし、今の自分には何もしようがないから、せっかく家から遠かった美術館に来たんだから、とりあえずは他の写真もじっくり鑑賞することにしよう。そう思って何も動かない世界でじっくりと写真鑑賞を楽しんだ。もともとは時間を閉じ込めた産物である写真を時間が止まった世界で見るというのも、ある意味不思議な体験だった。やはり静かな美術館というのは良い。ましてや、何も動かないとなると、これ以上の鑑賞環境は望めないのでは、とも思った。たっぷり1時間以上かけてその美術館にあった写真を全て覚えられるくらい見た。これも理由はわからないが、僕と僕が身につけていたものは動くことが出来た。だから、時間が止まった中でも、僕には腕時計で自分が過ごしている時間がわかっていた。さて、写真も見終わったし、家に帰ろうと思ってハタと気がついた。歩いて帰らなければならないじゃないか!全てが止まっているのだ。バスも電車も動いているわけがない。実際、美術館の前に停まっていると思っていた車も、よく見たら人が乗っていて運転中の車だった。これは困った。時間が止まるってこんなに不便なものなのか。僕の家はここからはとてもじゃないが歩いて帰れる所ではない。だって、電車とバスを乗り継いではるばる3時間かけてやって来たのだから。まいった。どうしよう。だが、頑張って家に帰ったとしてどうなるのだろうか?この静かな世界で家に帰ることに意味があるのだろうか?そう思ったら帰ろうとしていたことが馬鹿馬鹿しくなり、帰るのを止めた。そして、とりあえずお茶でも飲もうと思って、今度はもっと愕然とした。お茶が飲めないじゃないか!花びらが止まっているくらいだから液体も止まっているわけで、喫茶店のコーヒーなんて期待できるわけもない。これはまずい。真剣にまずい。ここに来て僕は初めてこの静かな世界で焦りを覚えた。世界に残された食べ物は僕のカバンの中にあったパンと午後の紅茶だけだった。これでは死んでしまう。美術館に併設されていた喫茶店に駆け込み、そこにあったありとあらゆる食べ物を食べようとしてみたが、全く動かなかった。サンドイッチもチーズケーキも、ポットから注がれていたコーヒーですら、ただ硬いだけだった。本当に歯も立たなかった。もう途方にくれるしかなかった。だが、そんな時に僕はその世界のもう1つの不自然さに気がついた。何でそもそもそんなことに気がつかなかったのだろう?いきなりこんな止まった世界に閉じ込められて、やはりどこかで神経がおかしくなっていたのだろう。あまりにおかしすぎる。そうなのだ。この世界はとってもおかしいのだ。全てのものが逆なのだ!鏡に映ったように左右が逆になっていたのだ。喫茶店のメニューを見て、字が反転していて、初めてそのことに気がついた。どうして気がつかなかったのだろう?考えてみればこの美術館には初めて来たから、そもそもの構造がわかっていなかったがために左右逆になっていても気がつかなかったのかもしれないが、それでもそんなことに気がつかずに、静かだなぁなどとのんびり写真を眺めていられる奴なんているのだろうか?いた。そんな阿呆がここにいた。我ながらあきれるしかなかった。それでも時間は過ぎるもので、僕の腕時計は時間が止まってからもうすぐ2時間が経とうとしていることを知らせた。お腹も減ってきた。2時間という時間が永遠のように思えてきた。でも、これからもこの静かな時間は降り続くのだ。僕独りの上だけに。そう思うと僕はまるで戦場で一人だけ生き残った兵士のような気持ちになった。これだったら映画の中で最後に死んでいく主人公たちの方が全然いい。僕も死ぬのなら華々しく逝きたいし、映画とは言わないまでも、何かに記録されたい。この止まった世界で誰にも知られずに居なくなっていくなんて、悲しすぎる。真っ白だ。そう思ったときに、僕の足は自然と最初に見ていた例の映画館の写真に向いていた。あの真っ白なスクリーンを見てまた何かを感じたい。そう思っていたのかもしれない。そして、その写真の前に来たときに僕はまた驚くことになった。その白いスクリーンの中で何かが動いていたのだ。最初は何だかわからなかったが、次第にそれが何なのかわかった。それは文字だった。文字が下から上に流れていたのだ。一体これは何なのだろう?この感じはどこかで見たような気もする。…。そうだ。これは映画のエンドクレジットだ。今、このスクリーンでは映画が終わろうとしているのだ。それがわかったときに僕は確信した。そうか。僕はこのスクリーンの中に閉じ込められていたのだ。スクリーンに鏡のように写った世界を見ていたから左右逆になっていたのだ。そうだ。そうに違いない。だとすると、もうすぐ映画が終わるということは、僕も、この静かな世界も終わる。もうすぐだ。そのときスクリーンが真っ白になり、今まで物音ひとつしなかった静かな世界に、大きなシャッター音が響き渡った。カシャッ!その次の瞬間のことは一生忘れないだろう。僕のまわりのものが動き始めたのだ。せき止められていたダムが一斉に決壊したかのように、人も物も空気も動き始めた。窓の外には風が吹いていた。音も聞こえた。車も走り去った。コーヒーも飲める。あぁ、動いている世界って、騒がしい世界って、何て素晴らしいんだろう。やっぱり人生は流れているべきものなのだ。真っ白いスクリーンを写した写真の前で、僕は今度こそ泣いた。美術館を出ると、そこには紫のバラの花びらが落ちていた。【2015.2.5】