やっぱり、普通じゃない。ラース・フォン・トリアーという監督は。最新作は『ニンフォマニアック』。女性の色情狂=ニンフォマニアを意味するタイトルがつけられた本作は、女性のセクシャリティをテーマに、幼い頃から性に特別な関心を抱き、好奇心とそこから生まれた欲望を満たすため、数えきれない男性と身体を重ねてきた女性主人公・ジョーの遍歴を描いています。道端に倒れているジョーを助け、彼女がそこに至るまでの話に真剣に耳を傾ける紳士セリグマンとの会話が中心。これまでのフォン・トリアー作品と比べても、過激でセンセーショナル。いつもの気の滅入るような要素はないけれど、性表現が苦手な方はご覧にならない方がいいかもしれません。でも、フォン・トリアーの挑発に乗るのが好きな方、人間を深く探求するが好きな方には、決して見逃して欲しくないのが本作。性とは、人間が避けて通れない欲望のひとつで、それなしに生命は続いて行かない、生き物の根幹にかかわること。にもかかわらず、なかなか公には語られることのないタブーや恥ともされる性への好奇心に迫り、しかもそれを女性側から語る手法は、社会への挑戦とも言えるのかもしれません。人があまり表に出そうとしない感情、性質を、臆さず赤裸々に語っていく主人公・ジョーを見ていると、誰よりも純粋で正直に思え、いじらしささえ感じてきます。性への関心、欲求と、純真さとは正反対だと思われていますが、本作を通して、その社会通念に疑問を覚えたりして。極論を言えば、監督が本作を撮った意図とは、誰もが抱えているくせに、まるでそれがありもしないかのような顔をして暮らす人々に、自分の真の姿を否が応にも発見させる、ということなのかもしれません。それを認識してこそ、より自分や他者への理解が深まる…。そう、やっぱり人間“ありのままで”生きられたら、そのほうがいいに決まっています。つまり、ラース・フォン・トリアーが、『アナ雪』で話題になった“ありのまま”を描くと、こうなっちゃうということなのでしょうか…。そして本作で驚かされるのは、監督のヴィジョンを実現すべく“本番”も辞さず演技に臨む俳優たち。体だけでなく、心も裸にして作品に献身する姿に、敬意を表さずにはいられません。欲望、羞恥、痛み、快楽、喜び、悲しみと、多くの劇的な感情を内包するセックスは、人の本質、人の本音を語る際、どうしても避けて通れず、人の何たるかをつきつめればどうしてもそこに行き着くというテーマ。この作品が、過激表現を主たる目的としたものだったり、思い付きだったり、中途半端な考えで作られたものでないことは、宗教、哲学、芸術にも及ぶジョーとセリグマンとの会話を聞いていれば分かること。つまり、役者たちの身を削るような献身は、壮大なる精神世界をも意識させる本作に、大きな意義を感じたからこその結果なのでしょう。こういった作品は、性表現ばかりが取り沙汰されがちで、“アートかポルノか”という議論が常につきまといます。でも、正直ってどちらでもいい。アートもポルノも、作り手、観客がそれぞれ感じるべきことで、好みに合うか合わないかで、観客自身が観るか観ないかの判断をしていけばいいわけですから。つまり、人間というものを突き詰めるために過激な表現を用いた本作は、誰でも楽しめるというわけではありません。でも、映像作品ができる人間表現のひとつの極致を見たいと感じる人にはおすすめしたい1作。ただし、鑑賞の際には、それなりの覚悟が必要なことだけはお忘れなきよう。